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山車の歴史

尾張津島市天王祭の伝承と津島秋祭りの発生

黒田幹夫

はじめに

 愛知県津島市は、名古屋市の西方約20キロメートル、木曽川東岸下流に位置し、俗に木曽四十八流と称した古木曽川の流土砂によってデルタとして形成された地域で、旧海部郡の中心地である。また、中世から津島神社の門前町として、天王川・佐屋川を利用した湊町として栄えた場所である。

 尾張津島市天王祭は、愛知県津島市の津島神社および天王川公園一帯で七月第四土曜日(宵際)・日曜日(朝祭)(昭和37年までは、陰暦6月14日・15日)に行われる祭礼である。この祭りは、大阪の天満天神際・広島厳島神社の管絃祭と並び日本三大川祭りのひとつに数えられている。また、昭和55年に車楽舟行事が国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 津島神社は、祇園八坂神社と共に全国の天王信仰を東西に分けているが、特に津島神社の牛頭天王による疫病神信仰は、津島信仰として東日本を中心に広まった。また、それと同時に津島天王祭りも愛知県内をはじめ各地に広められた。

大正時代の秋祭り
【大正時代の秋祭りの様子】

津島秋祭り

 津島市には、夏の天王祭りのほかに秋祭りに出される津島七切型と呼ばれる山車がある。これは津島天王祭りに出されている車楽・大山の影響を受けて成立したものである。この頃では津島天王祭りの車楽から波及してできた山車祭りとして津島秋祭りを紹介する。

 この祭りは、七切祭り(市神社、旧暦8月15日、米之座・小之座・池之堂・麩屋・布屋・北口・高屋敷)、今市場祭り(大土社、旧暦8月2日、大中切・小中切・朝日町)、向島祭り(居森社、旧暦8月1日、馬場町・中之町・上之町)という三地区で行われていたが、大正15年10月1日津島神社が  小社に昇格したのを契機に津島神社列格記念祭として統合して行われることになり現在も続けられている。また、これらの津島地(地方)祭りは七切祭りに起源を発し、続いて今市場祭り・向島祭りという順に成立したものである。

大正時代の上車
【大正時代の上車】

発生(囃子屋台)

七切祭りの成り立ちについては、「張州雑志巻第七十五」に次の記録がある。
臣 内藤正参 著
臣 梶 規正 校

市神社在米之座切 社地二畝二十一歩正徳三成年除地 堀田開太夫守之 天王ノ末社也 正月初市ノ神事アリ 天王社年中行事二詳誌ス 8月15日祭 アリ 車七  物等アリ 米ノ座 地之堂   布屋町 北口 高屋敷 的場町ノ練物北町二加    ハ正徳元年 八月十五日夜 笹二  ヲ付 傘鉾 等ヲ出シ  ヲ初メト 凶年ニハ湯立神社楽 ル  享保二年  同シ 享保三年ヨリ車ヲ  正式  二定タルハ享保十一年也 車人形練物等ハ年々不定   ハ天明元年ノ    土ノ御前社在今市場二 社地四畝歩正歩三成年除地   八月二日 今市場三切祭之 東之切 中之切 西之切也 社之後ニ造物ヲ ル 東之切上下ニ車ニ輌アリ 八剣宮在吉祥時門前 社地三畝歩正保三戌年除地祭 八月朔日 家毎ニ桃燈ヲ掛ル 中野 中嶋厨下モ構 比四切祭之 山車ニ輌 中野 下モ構 焼失後中絶

 これによると七切祭りの成立は、正徳元年(1711)8月15日の夜、笹に提灯を付け傘鉾を出したのが始まりであるという。また、享保三年(1718)から車を飾り享保11年に正式祭礼に定められたが、車・人形・練物等は毎年変えていたようである。

 前掲の「津島踊記」には、「或時津島踊りを清洲しめして見給ふことあり  町々より  さま〜 ねり物など善つくし美つくし 或は大ひにして御門に入る事かなはぬ  も有つる由也」とあり、すでに慶長年間には町踊り(    ・笹踊り)で傘鉾・山鉾・練物を出している。また、前述のように町方九町が6月29日・30日に行っている笹踊り神事はとも言われ夜に行われていたものである。

 地方祭りの成り立ち過程を今一度見直して見れば、まず雨乞い踊りに始まり、地方  踊りの影響を受けて地方御葦踊りになり、地方(民家)踊りに変わって行ったものである。これらのことを考え合わせれば、市神社を中心にした地方七町が各々別々の日に行っていた地方踊りを8月15日の夜に結集して始めたのが七切祭りになったものではないかと考えられる。

 山車については前掲の大橋家文書に「片町踊車太鼓入申候。ずしの踊りに琴入申候」とあるように、片町の踊りは車を使っていた、また厨子の踊りには琴を入れるほどであるから何らかの車があったと思われる。このように町の踊り場では七切祭り成立以前から車を使っており七切祭り享保3年(1718)から車を飾り享保11年(1726)から正式祭礼になったが、車は毎年変えていたというほどであるから、初めは囃子屋台から始まり、しだいに本格的な山車になっていったものと考えられる。

 尾張藩では、享保15年(1730)に徳川宗春が第七代尾張藩主になり、幕府の質素倹約政策に従わず、独自に文化振興策を施行し、尾張の文化が一大発展をする。また祭りも奨励したため名古屋の東照宮祭を初め尾張一帯の祭りも発展することになる。津島でもこれの漏れず、七切祭りの山車も順次整えられ、「張州雑志巻第七十五 市神祭」の天明元年絵図の載せられている山車が完成していったのである。

風流山車(屋台)の発展

 これより津島地祭りの山車を初期型山車と後期型山車に呼び分けることにする。初期型山車は、「張州雑志」天明元年(1718)の絵図にも描かれている入母屋屋根タイプの山車で、後期方山車は、現在祭りに使われている唐破風屋根タイプの山車とする。初期型山車は、その形状から天王祭り車楽の影響を受けて出来たと考えられるが、その根拠として天明元年の時期について見てみると次のようなものがあげられる。第一に屋根が入母屋根造りである。(現在は唐破風造り)

 第二に屋根の四隅に  を飾る。(現在は無し)第三に屋根の下、四本柱内に人形を一体置く。(現在は数対の人形を置く)第四に七切祭りの先車である米之座は、高砂の人形を飾る。また、尾張藩士高力種信と絵師小田切春江の著作である「尾張年中行事絵抄」市神祭り(七切祭り)の絵図に、次の様な記述がある。「何れの車も、細長くて高し。其さま、六月の朝祭りの車楽に似て、天井に  をかざる。」これはまさに津島地方祭りの初期型山車が天王祭りの車楽(朝祭り)によく似た、または真似た形であったことを裏付けるものである。

 津島天王祭りでは、享保2年(1717)尾張第六代藩主徳川継友公の祭礼見物以来、朝祭りの津島車の先車に飾る置物の人形が「高砂」に固定されたと伝えられ現在も行われている。この「高砂」人形を津島車の先車に固定して車楽を渡すこことは町方の誇りであったと考えられ、それを地方の七切祭りが先車の米之座に「高砂」人形を乗せて祭りを始めたということは、地方の町方に対する対抗意識の現われではないかと思われる。

 「張州雑志」の天明元年絵図に書かれた当時の津島地祭りは、山車も現在のものと違うが、また祭礼の形態も現在とは大きく異なり、山の前を進む仮装行列を中心にする祭りであった。これは 長年間の町方笹踊りに練り物・山鉾を出したものであると考えられる。津島地祭り山車設立当時から現在までの山車形態の移り変わりを見てみると、天明年間(1781〜1788)の頃は、高欄から上の部分を天王祭りの車楽からそっくりそのままコピーした造りであり、まだ梶棒も取り付けられておらず、町方踊りの伝統を受け継ぐ仮装行列とともに曳かれたものであり、仮装行列の一部を占めるものとして祭りに参加していたものと考えられる。

 「張州雑忘」の約四十年後の記録の「尾張年中行事絵抄」は、文政年間(1818〜1829)の様子を表したものと思われ、それによると天明年間に取り付けられていた引き綱はすでに外されており名古屋系山車の特徴である前後に抜ける梶棒に代わっている。これは練り物行列の一部であった山車から単独で引き回す山車に変化したためである。また麩屋町と池之堂の山車屋根は、まだ四隅から  がつり下げられてはいるものの天明年間の入母屋造りの屋根から名古屋系山車の特徴である唐破風造りの屋根に作り替えられている。

風流の練り物とからくり

 「張州雑志」天明元年(1781)の記録と「尾張年中行事絵抄」文政年間(1818〜1829)の記録と現在のからくり人形を比較しながら、当時の練り物・からくり人形を紹介する。(津島七祭りからくり変遷表、張州雑志天明元年絵図、尾張年中行事絵抄、参照)

 このように天明年間当時は、慶長年間から行われてきた町方笹踊り(神葭踊り)を受け継いだ練り物を主にした祭りであった。また、からくりは現在のような複雑な動きをするものではなかったように思われる。尾張年中行事絵抄では詳細に記録されていないため七切すべての町についてはわからないが、文政年間でもまだ練り物を伴った祭りであった。この当時から現在までの山車からくりで変わらないのは、小之座の獅子舞と麩屋町湯取神事と北口の太鼓叩きである。ここで特記すべきことは、米之座の練り物が天明元年に飴売りであったのが文政年間には笹踊りに変っていることである。これは慶長年間から町方が行ってきた笹踊りそのものであり、これからも七切祭りが町方の影響下に成立したことが窺える。古来より地方が町方の祭りを真似ることは鳴り物論争にあるように町方に拒み続けられてきたのに、なぜそのようなことができたかであるが、それはたび重なる津島の大火・津島湊の衰退等で町方の勢力が衰えてきたところに、地方住人の中にも町方衆と肩を並べる財力を持つ者があらわれ、両者の格差が縮んだためであると考えられる。

中野八剣宮の山車について

 次に前掲の「張州雑志」に記載されている現津島市中野町にある八剣宮に存在したと思われる山車について少し考察を試みることにする。 「張州雑志」によると八剣宮で8月1日に祭礼があり氏子町は、中野・中島・厨子・下構で中野・下構から二輌の山車を出していたが消失後に絶えてしまったとある。下構は本来天王祭りを出している町方であるが、下構には町方と地方があり、ここで言う下構は、中野と同じく地方である。

大橋家文書 笹祭り(    )

海東郡津島天王御芦神事の儀 何頃より始り候と申儀は相知不申候得供 宮本にては御芦牧の儀は深き神秘も御座候由乃承候 住古より当所へ御慎座に御座候得ば 御当国御無難御繁繁栄のため並当所無難のため 社家社僧よりは弐夜三日の御祈  当村町方百姓九町よりは笹踊神事と唄申候て御役所え御達申上 六月九日晦日両日の内に相勤 其上馴踊と唄候て ・・・(中略)   初日に壱町相勤 翌日よりは弐町づづ相勤 都合五日に相済候古例に御座候 里諺には右笹踊を夜踊神事と唄へ 馴踊を昼踊神事と申ならわしにて・・・(中略)其余は笹踊には年柄により少々替踊も仕 馴踊は狂言仕組の題号に仕候 乍然凶年には昼夜相兼候て 扇の手踊計にて六月廿九日晦日の内 一日に相勤候例かたに御座候・・・(中略)慶長年中薩摩守様清洲御在城被遊候節 御不例の御慰御祈  祷にも可相成候間 御上覧可被遊の旨被仰渡 九町共清洲え 出御城内にて奉入上覧候処 殊の外御機嫌よく御誉被為遊 全く御当家を奉祝候神踊の由 上意にて御菓子御酒等被下置候由 基後御全快被為遊御祝ひとて 九町え銀一枚ずつ被下置頂載仕候由申伝候

張州雑志寛文三(1663) 7月2日

上河原 踊雨乞 御葦御踊 米之座  御踊 ねり物舟弁  慶 北口  踊雨乞 御葦踊  小野座  御踊 しばがき 中野  雨乞禮踊      今市場村踊 雨乞禮 池之堂  御葦御踊      今市場東西 御葦御踊 金燈籠 御葦御踊      小沼   御葦御踊

津島踊記藤浪 問答寛 3年(1750)

或時津島踊を清洲へめして見給ふ事あり 町々より傘鉾さま々ねり物など善つくし美つくし 或は大ひにして御門に入る事かなはぬ山鉾も有つる由也…いずれの時にや 錬物を 民家の踊に免して後は 町踊には 唯踊り子に 朱傘を指懸け 想場の宿老は 本より四家七氏の なれば 鑓長刀をもたせし也 此道具を持せる事も今はやみて 朱傘のみ用ひ伝り 又琴三昧線の村田楽の風を忘れ 民家踊の町毎に 古風の踊を仕かへ 域は 米之座は船弁慶 上河原は酒てん童子 芋座は唐人踊 池堂は笈さがし 筏場は富士の巻狩 芋妻は景清 北口は源十奴 今市場は和田酒盛 下横は大原木 中野はか 里踊里など 年尚しく馴し来り 其後寛文年中には 今市場金燈籠其外にも鼓笛太鼓を打し事 不陣に至りしより 町家より公儀に訴へ...

大橋家文庫

去々年丑の年七月雨乞踊に鼓太鼓入申由百姓衆申上候 町の者共何も見申候かとせんぎ仕候へ共 何も見申候者無御座候  鼓太鼓入申候を町の者見申候は 其時庄屋衆町方より理り可申候へ共 一円不存候 町の踊にか(加)へ入申候と百姓衆申上候 片町踊車太鼓入申候 ずしの踊に琴入申候 惣て町の踊に何を入不申候と作法無御座候に付 琴入申候 百姓衆も近年はしゃみせんなど入申候て踊申候へ共 是にはかまひ無御座候

津島七切祭りからくり

布屋尾張雑志尾張年中行事絵沙現在
町名練り物からくり練り物からくり練り物からくり
米之座飴売り笹踊り  高砂
池之座 反魂丹売り         子の倒立
北口 花聖   伊吹山のもぐさ売り 太鼓たたき   太鼓たたき
高屋敷 鷹狩り   富士の牧狩り    
母衣 湯取神事 小母衣 湯取神事   湯取神事
小之座 人大名 獅子舞 大名行列 獅子舞   獅子舞

七切際歴史記録年表

七切池町「」

寛政6年 (1794)

たいしょうさま高屋敷へうり 金一両

人形代 名古屋前津 藤吉  金十二両

やたい    金五両二分と  五分二厘

あじろ代          金一分と

外にいろいろ        金三両

寛政7年8月 (1794)

右は井戸の入用       金二両二分

寛政8年8月 (1796)

尾□塗 右は天井の入用   金五両

文政1年8月出来 (1818)

水台ほり物 名古屋 早瀬長右ヱ門   金三両

七切

寛政7年 (1795)
箱板

かうらん壱通 はこ棟1本
寛政七乙 歳8月吉日婦屋町

嘉永1年 (1848)
屋根棟

干時嘉永元年戊申八月吉辰 當神領中町住
棒作事 山川二左ヱ門 藤原正信

七切北町

文政十一年 (1828)
前人形樋 

文政十一年戊子8月仕整北町

七切布屋町

文政十一年 (1828)
屋根四本柱

干時文政十一年戊子8月吉辰棒作事
神領中町住人 山川二左ヱ門 藤原正信

文政十一年 二年 (1849)
屋根枠

文政十一戊子8月 神領中町山川二左ヱ門
   二己酉8月 山川二左ヱ門 藤原正信

  二年 (1849)
幕箱の  

干時嘉永二年己酉8月出来
此年当番二付二のわくより屋たい ぬりはく金物等出来之上 7月廿5日俄に思立夜通し出府 名古や杉之町万屋源助方にて白羅 地求め 当所上切町むいや幸助世話にて七間町土屋にて師子ぬい出来 夫より心を配り品々でき□覆等目覚しかりし事也
右二付万事
心配の人々
照蓮坊 13代大乗
町代 栄助 傳蔵 卯助 半七 勝蔵  蔵 和平 幸蔵
若い者 杢兵衛 儀助
惣中老
惣イ者也
大乗書之 此年車藤建之

七切小之座

天保六年 (1835)
箱板

天保六年乙末8月吉日

七切高屋敷

嘉永二年 (1849)
屋根四本柱

嘉永二乙酉二月十有六日 奉作事山川二左ヱ門

向島中之町

下段勾欄箱蓋
文政二年 (1819)

奉高欄作事 山川左ヱ門 藤原正信
文政二年乙卯八月吉日 下高欄箱蓋 中町辻物

箱蓋
文政七年 (1824)
三年(1846)
明治十五年(1882)

文政七年 甲申八月吉日 神領中町辻物
弘化三年丙午七月
明治十五年 壬午後 神祭係作事ス

台輪前部内側
弘化三年

干時弘化三丙午七月吉辰 奉作事 山川二左ヱ門

屋台枠内側
文政十年(1827)

干時文政十亥七月吉日 奉屋台枠作事富 山川二左ヱ門 正信

屋台枠内側
天保六年(1835)

干時天保六乙末九月□ 申七月吉日
奉塗箱
富     馬場町   塗師屋 □□
             塗師屋 吉平
     名古屋橘町   箔師  伊久田屋
        橘町裏□ 金物師  屋治

向島馬場町 

提灯橘
寛政十一年(1799)

寛政十一年己未年正月吉日 向嶋馬場
坂本屋武吉 奇進之ス

向島上之町

屋根棟の裏
文政七年(1810)

 

 

 

 

文化七年七月 作右ヱ門 久右ヱ門 兵右ヱ門 忠右ヱ門
仙右ヱ門 左七 正七 孫右ヱ門 栄蔵 甚太 新蔵 伊右ヱ門
棟梁 伊藤平助
     伝蔵  八右ヱ門    秋江村
仕中  利兵衛 太助      森利左ヱ門  久米蔵
世話人 還右ヱ門 太治右ヱ門 京蔵 佐吉 平吉
丙寅文化三七月 馬場町内什物

提灯桶
安政三年(1856)

安政三年辰十月  加み満ち

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